【プロフィール】
1940(昭和15)年11月23日生まれ。北海道出身。熊本高校‐熊本商科大学(現・熊本学園大学)商学部商学科卒。1963年熊本振興㈱(現・熊本ホテルキャッスル)入社。1967年熊本商科大学・熊本短期大学(現・熊本学園大学)事務局に入職。1992年同総務部長、1996年事務局長、2004年学校法人熊本学園常務理事などを歴任し、2015年11月第9代理事長に就任。その他、2011年4月から九州中央リハビリテーション学院を運営する学校法人立志学園の評議員なども務める。趣味は写真。
若者へのメッセージ
「縁を大切にし、縁をつなげる努力を」
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T1 park 記者
熊本学園理事長に就任された感想を。
目黒
11月17日付で理事長に就任し、目まぐるしく時間が過ぎています。ご存知のように大学を取り巻く環境は急激に変化しており、特に少子化対策をどうするかという問題に直面しています。時代と共に規模の調整をしていかなければならないと感じています。 例えば、飛行機でいうとジャンボジェット機を使用しているところは減ってきていますよね。それと同じで、大学の規模も周囲の環境を見定めながら、毎年毎年積極的に見直していくことが大切だと思います。また、大学教育の持つ役割をしっかりとした形にするということにもさらに取り組みたいと思っています。高校3年間を通してしっかり教育され育てられてきた生徒を大学にお預かりするわけですから、大学生活を通して勉強もそうですが、人間性もきちんと教育していける大学でありたいと考えています。そして結果として就職や将来につながることが大切だと思っています。学生諸君が熊本学園大学の4年間で立派に成長してくれれば、これは私にとってこの上ない喜びです。
T1 park 記者
大学生活を通じて学生に身に付けて欲しい力は。
目黒
今の学生諸君を見ていると、やはり「生きる力」を身に付けて欲しいと思います。それが私からの願いです。それは「働く力」にもつながります。大学生活4年間を通じて「生きる力」、つまり働く手段を身に付けてもらいたい。働くということには色んな意味があります。お給料をもらうために働くという意味もありますが、それとは別に、社会的に自分自身の生きがいを見つけることでもあります。ボランティア活動などを通して社会のために自分に何ができるか、どんな貢献ができるのか、といった意味もあります。この2つの点から「生きる」ということの意味の大切さをまずは学生諸君に学んで頂きたいと思っています。 そして、若者に伝えたいことは、自分の仕事を好きになり没頭すること、何があっても諦めず、その努力をずっと続けていくことが大切だということです。
T1 park 記者
理事長が学生時代に経験されたことで、役に立った思い出は。
目黒
私は熊本商科大学商学部の6期生です。熊本高校を卒業後、昭和34(1959)年4月に入学し、昭和38(1963)年3月に卒業しました。 福祉事業に携わっていた母は、母子寮の寮長として働いていました。私にとって母の手伝いを通して身に付けたことはとても大きかったと思います。当時、母子寮では戦争で父親を亡くした母と子の生活を支援するということが主な仕事でした。一番多感な高校の頃に母の仕事を手伝うことで影響を受けたのだと思います。 そういったこともありましたので、高校時代の恩師の先生から「お前は母親の手伝いをしなければいかん。経済的に必ずしも余裕のある家庭ではないのだから」と言われ、当時大学4年間の学費の全額免除制度があった熊本商科大学に進学するように勧められました。そのお陰で今日があります。 学生時代は、自由闊達な校風の下で、自分に生きる力を植え付けることに努力を重ねたつもりです。母の影響もあり、YMCAの青少年活動を通じてポリオに苦しむ子供達を支援するボランティアにのめり込みました。そのことが後になって役立ちました。私が熊本学園大学の職員となり入試課配属の頃、しょうがいのある方にも受験できる入試制度を整備することができました。入試問題も点字で作り、車いすの受験者用に机や椅子を準備するなど同僚の職員と共に必死になって取り組みました。試験から受け入れまで初めてのことでした。 人間というのは働かなければならない、じっとしていては駄目だ、これに徹してきたと思います。
T1 park 記者
若い頃はホテルにも勤務されていたそうですね。
目黒
大学卒業後、熊本ホテルキャッスルが開業して間もない頃、平塚泰蔵社長の下でホテルマンとして働き始めました。ホテルというのは当時非常に特殊な業種で、職場は綺麗で、仕事も華やかでした。品格ある仕事だったと思います。ドアボーイからベッドメーキング、トイレ掃除など色んなことをやりました。途中およそ4カ月間、中南米を中心に研修に出してもらうなど貴重な経験もさせて頂きました。それから5年経って平塚社長が退任するのを機に私もホテルを辞めることを決意しました。元々が平塚社長に付いて頑張っていく気持ちでホテルに入社したわけでしたから、自然な思いで決心しました。 私がホテルを離れる時に平塚泰蔵社長が私に送ってくれた言葉がありまして、それは今でも忘れることができません。それは平塚社長が私に「俺はね、犬の子をやる時も、相手方が本当にこの犬の子を可愛がるかどうか確かめてからしかやらん。お前も一緒だ」と言われたんです。そして平塚社長はその頃大学の理事もされていましたので理事会に出て「目黒をよろしく頼む」とお願いされていたことを後で知って感動しましたよ。いやあ、あの時はホテルに戻ろうかとまで考えましたね。そこで思ったのは、就職は組織にするものでしょうけど、その時の組織のリーダーが誰かということはとても大切なことです。是非知っておくべきです。私はその時その時のリーダーに本当に恵まれてきたと思います。
T1 park 記者
大学に入職後はどんな思いで。
目黒
最初は広報課に配属されました。つまり、大学を広く多くの人に知って頂き、入学希望者を増やしていく仕事だったわけです。これはどんなビジネスにも共通していると思うのですが、お客様のニーズに合った売れる商品を揃えることが重要だと思ったんですよ。当時の大学は、商学部商学科しかない単科大学でした。そこから経済学部経済学科が増えたとはいえ、長年2つの商品だけだったんですよ。私が教えるわけではなかったんですが「生徒さん、お子さんを是非私にお任せください、何かありましたらご連絡下さい」と高校の先生や保護者の方々と接して、名刺を持ってお願いして回りました。 そんななかで、何とか新しい商品を作っていきたいと思っていまして、当時の文部省の方々とも友好を深め、ネットワークを広げ、手続きや申請など一つ一つ入念に進めていきました。その甲斐もあり、1学部1学科しかなかった大学が、今では5学部12学科にまでなりました。これからは、中身を濃く、教育の質をさらに高めることをしっかりと考えていかなければならないと思っています。今、常に頭にあるのは母校をどこまで発展させられるかということです。
T1 park 記者
理事長の座右の銘は。
目黒
「和して同ぜず」という言葉でしょうか。とことんまで「和」つまり上手く人と交わっていくことです。私も徹底的に話をして自分の考えを伝えますが、相手側にも徹底的に話をしてもらい考えを聞くようにしています。しかし、自分の芯は絶対に曲げないということが大切だと思っています。
T1 park 記者
若者への応援メッセージを。
目黒
人との出会いを通じて生まれた縁を大切にし、縁をつなげる努力を続けて下さい。その努力にはものすごくエネルギーを費やしますが、とても大事なことだと思います。この人はと思ったらきちっと縁をつないでいくことです。相手が知っていてくれる「存在感を失わない」ということを確認し続けなければなりません。それほど親しくならなければならないということです。それが人に対する信頼を作り上げることになります。私も多くの方々に可愛がってもらったという感謝の想いで一杯です。
T1 park 記者
ありがとうございました。
→くまもと経済 2016年1月号にも
目黒理事長の記事が掲載されています。 |