【プロフィール】
1965(昭和40)年6月10日生まれ。熊本市出身。済々黌高校卒。九州大学経済学部卒。1989年4月日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)入行。1995年4月県議初当選、1999年4月県議2期目当選、2002年12月熊本市長就任、2006年11月同市長2期目当選、2010年11月3期目当選。2014年12月2日熊本市長任期満了。 若者へのメッセージ 「無駄なことは何一つ無い」 |
T1 park 記者
市長職を無事に終えた感想を。 幸山 昨年12月2日をもって3期12年間4383日の任期を終えて、安堵したのが本音です。日々分刻みの激務続きでした。また、たとえ休みがあったとしても、24時間365日、どんな緊急連絡が入るかわかりません。災害や事件、事故などの連絡が入ってきますので、どこにいようともその連絡を受けて、時には行動に移さなければなりません。その緊張感から解放されたことは、自分の中ではとても大きいと感じています。 それと同時に、素晴らしい機会を与えて頂いた市民の皆様に感謝の気持ちで一杯です。市長という立場で、政令指定都市や新幹線開業など、熊本市の長い歴史においても大きな節目に立ち会えたということは、とてもありがたいことだと思いました。 |
T1 park 記者
これまでで思い出に残ったことは。 幸山 今でもはっきりと覚えていますが、最初の市長選挙で立候補の決断をした時でしょうか。当時は37歳で「若者の無謀な挑戦」などと言われもしました。そして市長選挙までの約2カ月間、街角に立ち、街頭演説、いわゆる辻立ちを何度も繰り返しました。最初は誰も立ち止まってくれませんでしたが、一期一会ではないですけれど、「目の前を通過する人との出会いはこの一瞬しかない」という思いで、とにかく必死でした。なんとか立ち止まってもらおうと、当時の気持ちをストレートに訴え、立ち止まってくれたならば、10秒でも20秒でも少しでも長く話を聴いてもらい、そして共感して欲しい。もし共感して頂けたとするならば、それを一人でも二人でもより多くの人に伝えて欲しい。こうした強い思いを胸に、常に真剣勝負で語り掛けていました。なかでも新市街と下通アーケードの角は、辻立ちをした非常に思い出のある場所です。 |
T1 park 記者
なぜ政治の道に進まれたのですか。 幸山 元々政治家の家系であったのですが、父の秘書や選挙の手伝いもしたことは一度もありませんでした。それどころか、子供心に我が家が政治家の家系であることに反発心のようなものを抱いていました。政治というものは常に私の身近にあり、気になる存在ではあったのですが、自分が進もうと考えたことはありませんでした。 大学卒業後、銀行に入行したのですが、その直後にバブル経済が崩壊し、その後の対応を見ながら政治の影響力を考えるようになったんです。それとほぼ同時期に、政界では55年体制が崩壊し、新たな政治の流れが生まれました。そんな状況から、自分の中に政治をやってみたいという気持ちが湧き上がってきました。そこで、5年半ほど勤めた銀行を辞めて熊本に帰り、県議会議員を目指し、29歳という若さで当選することが出来ました。県議会議員という仕事にやりがいを感じてはいましたが、早い時期には、首長を目指したいとの目標を密かに抱いていました。そして市長選に挑んだわけです。 |
不出馬を決めたことも自分一人で考えた決断でした。市長の任期を終えて、役職が何もなくなった今の状況には不安もあります。しかし今は、市長としての12年間や政治家としての20年間を振り返って、これから自分に何ができるのか、あるいは何をやらなければならないのか、などを考えながら、政治家としての新たな目標を見極める大切な時間にしたいと思っています。また政治家として自分に足りない部分を補い、後で振り返ってみても意味のある時間にしたいと考えています。政治家としての節目として、区切りをつけて、次の目標に向かっていきます。
T1 park 記者
仕事をする上でのモットーは。 幸山 言葉としては「一期一会」や「一所懸命」を大切にしています。 決める、決断することが仕事と言っても過言ではない市長の仕事を通して、様々な難しい判断が求められる場面に直面してきました。最終的な判断を自分で行い、その責任を自らで負う。市長の経験から学び、得たこととして、「決断力」がありました。決断するためには、独断をなるべく回避するために普段から「聞く力」を持たなければなりません。そして決めたことには、説明責任を含めた「責任」を持たなければなりません。ですから、一瞬一瞬を大切にしながら、聞く、決める、責任を取る、この繰り返しを丁寧に取り組みました。 |
T1 park 記者
仕事のやりがいや喜びをどこに感じますか。 幸山 やりがいや喜びはたくさんありましたが、その中でも一つ挙げるとするならば、人との出会いですね。様々な地域を訪ねて、色んな人と触れ合います。そんな時に喜びを感じます。もちろん厳しい指摘を受けることもありますが、感謝の気持ちを伝えられることもあります。それらすべてが、仕事をする上でのやりがいであり喜びだと感じていました。 また、信頼できる政治の土壌を作り、若い人たちにも政治に関心を持ってもらいたいと常に考えてきました。しかし現実は、若い人たちが目指す職業として政治家があるかというと、今でもまったくランク外だと思うんですね。そういう意味では忸怩たる思いがあります。今後も続く永遠の課題かもしれません。決して諦めることなく、政治の信頼を少しでも高めるためにも、自らの言動には責任を持たなければなりません。 |
T1 park 記者
どんな高校時代を過ごされましたか。 幸山 高校時代の一番の思い出というと、済々黌の野球部で過ごした3年間でしょうか。今、色々な意味で、自分にとって最も役に立っているような気がします。3年間野球を続けましたが、レギュラーにはなれませんでした。2年生の夏の大会が終わり、最上級生になった時に、「あなたはマネージャーをやりなさい」と通告されてしまいました。つまり、レギュラーになることを諦めて裏方に徹しなさい、ということです。当時は、最上級生になったらレギュラーになることを目標に頑張っていましたから、とてもショックでした。最初はなかなか受け入れることが出来ませんでした。結局、100%受け入れることが出来ないままに、仕方なく「分かりました」と引き受けましたが、心の奥底では、その後も練習を積んでいつかはレギュラーになりたいという気持ちが残っていました。 レギュラーへの思いを吹っ切れずに、ノックを打ったり、ランナーコーチをやるなど、マネージャーの仕事を中途半端な気持ちでやっていたので、あまり気合が入っていませんでした。そうすると、下馬評では強いと言われていたにも係わらず、1回戦敗けが続き、なかなか勝てませんでした。 |
結局、最後の夏の大会では、ベスト8の一歩手前で敗れてしまいました。試合を終えて、済々黌のグラウンドに戻り、全部員が集って、3年生一人一人が最後の言葉を述べるのですが、その時に同級生から裏方をやってくれた感謝の気持ちや、あれだけ頑張ってくれたのに敗けてしまって申し訳ないと話してくれた時には、「もっと早くから裏方に徹していればよかった」との後悔の念と、「最後まで辞めずに続けて良かった」という気持ちとが交錯しました。
藤崎台球場の中でも特に思い出の場所は、決してピッチャーやバッターで大活躍したわけではありませんので、三塁ランナーコーチャーズボックスです。私にとっての晴れ舞台だったわけで、3年間の思い出が詰まった場所なんですよ。
母校には「三綱領」という理念もありますよね。
幸山
正倫理 明大義(倫理を正しくし大義を明らかにす)、重廉恥 振元気(廉恥を重んじ元気を振ふ)、磨知識 進文明(知識を磨き文明を進む)。その中でもやっぱり、特に一つ目「倫理を正しくし大義を明らかにす」が、今の政治家に問われているように感じていました。この三綱領に恥じないように、常に胸に刻み、責任ある行動をしていかなければならないと思います。例えば、現在の政治不信の根本は、倫理観の欠如ではないかと思います。三綱領の精神を守ることが、政治の信頼回復につながることかもしれません。
T1 park 記者
若者への応援メッセージを。 幸山 「若いときにやったことで、今の自分に役に立っていることは?」と問われれば、「何でもです」と答えると思います。つまり「無駄なことは何一つ無い」ということです。全てが役に立ち、全てがやって良かったと思います。漫然と時間を費やすことなく、目的を持って何かに積極的に取り組むことが大切です。部活でも、勉強でも、バイトでも、とにかく目的を持って懸命に取り組むことが、将来、何らかの役に立ちます。それから今はインターネットの普及により、コミュニケーションを図るうえでは非常に便利になりましたが、やはりフェイス・トゥ・フェイスの関係を大事にして欲しいと思います。 T1 park 記者 ありがとうございました。 |