T1 park 記者 熊本県立大学の近況は。 古賀 平成27年4月入学の入試志願者数において、本学の総合管理学部が全国の国公立大学の中では、伸び率ナンバーワンとなりました。伸び率160~170%増に達しました。18歳人口が減少傾向にあるにもかかわらず、本学は昨年に比べて飛躍的な増加を遂げました。入試制度の一部変更もありましたが、その主な理由として全国から志願者が集まってきたことが考えられます。「熊本」という響きが、九州の田舎だというイメージを払拭できたように感じています。これは、「くまモン」だけの効果ではないと思っています。 そして、総合管理学部が、従来の法学部や経済学部といった単一の専門学部と異なり、様々な要素を含めた社会科学の学部ですから、幅広い分野で適用できる総合的な人材を育成することに努めてきました。設立した20年前は時代を先取りした学部だったと言えます。元気な若者が育ち、卒業してきた成果だと思います。これからも期待をしています。 |
古賀 「地域に生き、世界に伸びる」力を培って欲しいですね。公立大学ですので、地域限定版になってしまってはマイナスです。若者が地域という枠の中で納まるのではなく、その可能性を地域から全国に、そして世界に向けて伸ばして欲しいということです。だからこそ、地域に根付いて、しっかり地域社会に貢献してもらい、そして、ゆくゆくは世界に通じる人材に育ってもらいたいと思います。 T1 park 記者 学長が若い時に経験されたことで、役に立った思い出は。 古賀 生まれ育った北九州は、当時公害問題が深刻で洞海湾の水の汚れはとてもひどい状況でした。こうした劣悪な環境を見ながら育ってきましたから、これを化学的にきちんと解決するにはまずは、汚れの度合いを数字で確認しなければと思い、大学の時から水質調査・分析に関する技能を学ぶ道に進みました。水を見た瞬間にどのぐらい汚れているかが判断できる感覚を養いました。当時はまだ、鉄は国家だと言っていたほど産業優先の時代でしたから「環境」という言葉にはあまり良い響きは無かったんですよ。 |
今でも役に立つ思い出と言いますと、大学3年生の頃に、船で太平洋に海洋調査で出た時の経験でしょうか。ちょうど台風が接近してきまして、出発して直ぐに私の周囲の大半が船酔いでバタバタと倒れてしまいました。そんな環境の下でも私だけは粘り強く調査を続けた思い出があります。体力勝負で諦めずに継続することが大切だと思いました。あの時は胃が裏返るような心地でした(笑)。 T1 park 記者 海外経験も豊富にお持ちだったそうですね。 古賀 1979年初めてハワイで日米合同の化学の国際会議に出席して、研究成果を発表しました。この時の縁などもあり、産業医科大学に講師として勤務していた1987年に米国のカリフォルニア大学ロサンゼルス校にオゾン処理の研究員として参加するチャンスが生まれ、一家で渡米しました。しかし、最初の1年間は研究員としての給料を上司から「英語が上手くないから6割だ」と値切られてしまったんですよ(笑)。悔しくて、その後きちんとした調査データを提出し、認めてもらい、2年目には研究プロジェクトのリーダーも任されられました。当初は1年間の約束で渡米しましたから、2年も滞在し、日本の同僚には迷惑を掛けてしまいました。しかし、良い研究が出来ました。 |
T1 park 記者 学長が熊本に移られたのは。 古賀 新しい環境共生学部を立ち上げるという話があり、設立の2年前に、熊本県立大学に来たのが切っ掛けです。まさに新しいチャレンジが熊本にあったから来たようなものでした。 T1 park 記者 趣味や運動はされますか。 古賀 高校生の頃から山歩きが好きで、阿蘇や九重の山々によく登りに行っていました。若い頃は食料が尽きると下山する途中の方々から食料を分けて頂いたりして山歩きを続けたこともありました。今でも時々登っていますよ。孫を背負ったままトレーニングを兼ねて俵山や烏帽子岳を登ったりしています。 研究調査でもよく山に登っていました。九州の山岳地域で中国から飛散する微粒子を計測するため、屋久島に観測機器を取り付けに行ったりしました。当時は2カ月に1回、電池交換とデータ差し替えに何度も登っていました。韓国の済州島にも高い山があり、長距離大気汚染物質の調査で登った経験もあります。 T1 park 記者 学長のモットーは。 古賀 人と仲良くやることでしょうか。そのためには、色んな機会に出来るだけ参加し、多くの人と話すようにしています。 T1 park 記者 若者への応援メッセージを。 古賀 「チャレンジ精神を忘れずに継続を」ということです。やはり努力というのを継続していかないと身を結ばないと思います。新たな世界に物怖じせず、国内でも海外でもどこでもチャレンジしていって欲しいですね。私の研究も一つ一つの積み重ねを続けてきたからこそできたのだと思います。 |